湧きたつ恋愛感情の功罪

ASDの場合、よく「自分が一番大事」とか「人を人とは思わない」などと批判されることが多く、自分でも参っていますが。これを改善する可能性があるのが恋愛感情だと思います。

 

自分の経験から判断するに、ASD男性が恋愛感情を持つと、わずかですが共感性とか思いやりの心みたいな、人間的な感情が出てくるみたいです。なので、これを上手く育ててやれば、少しは人間関係の構築がまともになるのではと考えられます。

 

ただ、これらの感情が裏目に出て「相手により好かれたい!」「今年こそは彼女が欲しい!」となると、自意識過剰になったり、独占欲へと繋がるので難しい所です。特に自分の場合上記二つが強いので、それで失敗を重ねてまいりました。

 

現実的には片思いの域を出ていないので、恋愛感情の発展後に起きる恋人同士の感情のやり取りに関しては、全く想像ができないので言及できません。悪しからず。

 

ただ、人間的な感情を育む可能性が少しばかりは生まれるのですから、例えば宗教的な教義にのっとって禁欲的に抑圧するのも、どうなのだろうかと思ってしまいます。あるいは逆説的に考えて「どうせモテないから」と宗教を志向してしまうこともあるでしょう。

 

でも、例えば切断された神経が伸びるような微々たる成長なのですから、本当に一か月で一ミリ伸長するようなイメージなので、傍から見ると何も変わっていないようにとられるかもしれません。

 

また、恋愛感情を保ったまま生活するのは脳に対して多少のダメージを与えると言われているので、長くは続かないんですよね。その場合、個人差はあると思うのですが、急に冷たくなったり、関係性の継続を放棄してしまうことがあるので、なかなか上手く行かないものです。

 

普通の定型発達者であれば、関係性の維持に努めるのだと思いますが、ASDでADDを発症していると、より生き方が刹那的になってしまうので、元の興味や趣味中心の生活に戻ってしまうことが考えられます。

 

恋愛をすることで得られる成長、発達障害者の男性からは、そのチャンスが失われているのは悲しい事でもありますが、宿命として受け入れ諦めるしか道はないような気もします。

 

仕事でも人間的成長は得られるとの説もありますが、発達障害の場合、それも難しさを伴いますし、恋愛で得られる成長と、仕事で得られる成長は全く別の物だという説があります。

 

まあでも、そんなに違わないだろうというのが正直な気持ちです。だとしたらモテない人はみな人間的成長がないという事になってしまいますので。

謝罪時の対処法と誤学習

幼少のみぎりより、自分がしでかした失敗に対する謝罪や、何かあって相手を怒らせた時の謝罪方法が、どうも定型発達者と違って特殊な対応をすることに今日気づきました。

 

実はツイッターの方である方を怒らせてしまったのですが、その当時は、何で相手が怒っているのかをまったく把握できず、火に油を注ぐ様な対応をしたあげく、炎上に近いような状況になってしまったと自分では体感しています。

 

その場合、定型発達者ならうまく対応できるはずですが、私は頭に血が上ってしまっていたのと、急に怒られた恐怖心からかなり誤った対処をしてしまったようです。

 

まずツイートを休む宣言をして、やばそうな書き込みを全部削除しました。身バレを防ぐためと、著作権侵害による通報を避けるためでした。そこまでは、まあまともだと思うのですが、問題は翌日です。

 

放置していたブログに「私の悪行」と書き、問題点を3つ書いた物をツイッターで公開しました。このことで私の評判は地に落ちたと思っています。

 

どこら辺が誤学習かと思われるかもしれませんが。自分の立場を下げることによって、相手の留飲を下げようと画策してる点です。それ以前にちゃんとした謝罪をすべきだったと思うのですが、昨晩の自分は認知に問題があったのか、相手が何故怒っているのかが理解できず。謝罪もできなくなりました。

 

ここが発達障害の難しい所で、普通の定型発達者ならまず謝罪して丸く収めることができますが、発達障害者の場合、「自分が納得しないと謝罪ができない」のです。なので、初動から対応を間違えていたことになります。そして、今回の自分下げ作戦は、今考えるとただ自分を貶めただけで、全く理屈に合わない行動になります。

 

この自分を下げることで物事の解決を図るという行動様式は、子供時代から形作られたもので、未だに治っていません。

 

もっともそんなことをしても、相手の怒りが収まることがないのは今までの人生で実証済みです。

 

これらの誤学習は、今後正していきたいと思っています。

介護専門学校時代にやらかした失敗

小売業を辞めて無職になっていた頃、介護の専門学校に入学した。

本当はDTPデザイナーになりたかったのだが、父の命令で仕方なく学校に通うことになった。本能的に、自分はこの仕事には向かないだろうなということに気づいていたのだが、「介護をしなければ、家から追い出す」と脅されていたので仕方がなかった。

下の世話が嫌だというのもあったが、そもそも当時から仕事が出来ないことに薄々気づいていて、特に動き回る作業は大の苦手だと感じていた。

今回は、専門学校時代にやらかした失敗について語ろうと思う。

障害児の学校で学園祭があり、一人の生徒に付きっきりで買い物の補助をする役割になった。その生徒は、あれも欲しいこれも欲しいと言い出したので、全額負担をして自腹を切って購入した。

一応、親御さんの側から予算は提示されていたのだが、その頃は自己犠牲的な精神に支配されていたのと、年に一度の晴れの舞台だということで、相手を甘やかしてしまった。生徒さんの年齢を加味しても、かなりの散財になってしまった。

結局、自腹を切った分は親御さんが支払ってくれたが、その失敗を機に、専門学校内での私の評価は下がり始めている。

今ならば、予算内で買い物を止めるべきだと判断できるのだが、当時は、その辺の判断ができず、自分が犠牲になればいいのだろうと間違った考え方に支配されていた。

事前に、生徒さんが予算以上の買い物を要求する可能性があることについては全く予想ができなかったのが残念だった。

このようなミスは、私が発達障害ゆえに起きてしまったのだろうか。それとも、色んなことで自分をいじめてしまう行動を取りがちだったせいで起きたのだろうか。

おそらく後者だと思う。当時の私は自分が嫌いでたまらなかったからだ。いろいろなことが人並みにできず、トラブルばかり巻き起こしていた。

学校内での校長先生への挨拶が思い浮かばず、私が最年長なのにもかかわらず、学級委員長に挨拶を代行してもらっていた。

私は時々、思い出したかのように自分に、罰を与えるような行動を取ることがある。それが形を変えて出てしまったのだと思う。

自分いじめのために他者を巻き込んでしまって悪かったと、今は思っている。

発達障害で判断力が劣るのは仕方ないが、自分を痛めつけるための行為は減らしていきたいと思う。

誤差を想定しない行動。または常識のずれ。

小売業で働いていた時のことです。

交代で夕食を取ることになり、一人持ち時間30分ずつで食事をとることになりました。フードコートで注文して、きっちり30分で食事を終わらせると、私は持ち場に戻って仕事を始めました。

しばらくすると約束を交わした同僚が泣き笑いの顔をしてやってきて

「食事が終わったら知らせないとダメだよ」と言われました。そして直属の上司からも、食事が終わったら知らせなくてはいけないと注意されました。

私は、「30分と決められた時間があるのだから、30分過ぎたら食事に行けばいいんじゃないか」と思っていました。

おそらく定型発達者の同僚は「連絡が来ないのは、食事が遅れて時間が押している」と感じたのだと思います。これは、当時は想像できませんでした。

つまり、私は調理時間の遅れによる誤差というものを全く考慮に入れてなかったのです。一方、定型発達者の同僚は、なかなか来ない私に困っていたのだと思われます。

以後は、食べ終えたら報告するようになりましたが、万事この調子で定型発達者の同僚との齟齬が生じます。それも、どのシーンで発生するかがわかりません。

別の話ですが、夕食を買いにベーカリーへ行き、会計の時に自分の身分が社員だったので、一般のお客様に譲っていたら、ものすごく時間が経過してしまい、夕食時間が減ってしまったことが何度かありました。この辺も融通のきかなさが前面に出たのだと思います。

本当に、誰もつまずかない様な事で、失敗をしてしまうのですから本人もですが、周囲も大変です。

丁寧な指導をするとしても限度がありますし、小学生に一から教えるような感じでやらないと、どこでミスをやらかしてしまうか見当もつきません。

些細なことで、周囲とトラブルになるので、前途多難です。

アイドル不在の人生

人生を通じてアイドルには入れ込まなかった。

高根の花だとの認識が強く、価値観を見いだせないでいた。

小学生時代には、好きなアイドルはいたが、成長するにつれて消えていった。タニヤ・タッカーの『ハローミスターサンシャイン』を機に洋楽を聴くようになってから、歌謡曲に関心が向かなくなってしまったからかもしれない。

 

思春期に、アイドルに入れ込むようなことはなく過ごしてきている。自分の場合、自閉症スペクトラム故のこだわりがあるが、熱中したお笑い芸人のミスター梅介やテキサスコンビが、アイドルだったとは認めづらい。

 

自分の中の定義では、アイドルは異性でなくてはならないと感じているようだ。洋楽で一番好きなガールズポップは、ヴォイスオブザビーハイブだったりするのだが、リアルタイムではないし、アイドルのカテゴリには入っていない。これはビジュアル情報が遅れて来ているせいもあるのだろう。

 

一時期、知人の頼みで、AKB48のメンバーに票を入れたことがあった。その時に推しメンを大家志津香多田愛佳に設定したのだが、積極的に応援する気にもなれず。追いかける気も起きず。無関心なまま終わった。私が年を取りすぎていたせいもあるのだろうが。

 

今思い出したのだが、女子プロレス阿部幸江に入れ込んでいた時期があった。当時Jd所属だったのだが、特にグッズを買ったりするようなことはなかった。でもお気に入りになっていた。この人の場合は、もしかするとアイドルとしては一番近い位置にいたりするんだろうか。自分の中では失礼だが、変な選手という位置づけにあり、それが好きを後押ししていた感覚がある。でも入れ込むのとは違うんだよな。ダニー・クロファットが好きというのと、少し違うのだが、異性を意識した好きなレスラーという微妙な立ち位置にあったのは確かだが。

 

自意識が高根の花を自動的に選別していて、アイドルを追いかける情熱の元となる疑似恋愛的要素を、意識して除外していたせいで、熱中することがなかったのかもしれない。

 

今回は、自分の中にアイドルという概念が育たなかったことを書こうとしたが、偶然にもそれに近い存在を見つけて驚いている。それでも過剰に入れ込まないのは、やはり手の届かない存在というのが強く意識されているせいだと思う。

 

自分が応援することで、相手の立場が上がるという幻想を持つ対象がアイドルだとしたら、一時期ランキング番組で順位が上がるのを望んでいたヴァン・ヘイレンが、私のアイドルになるんだろうか?

 

共感性のない者が示す優しさ

私の優しさは、どうしてもASDの絡みで、空回りしがちなものになります。基本的に、普通の親切はできるのですが、もう少し込み入った内容になると、難しくなるようです。

 

またどうしても、何かをしてあげたくなるため、黙って寄り添うといった行動を伴わない優しさというのが苦手です。

 

さらに、普段のKYな行動や、独演会チックな会話内容、さらに日々の失言癖などで帳消しになってしまう事が多々あります。

 

かって好きだった異性に相談を持ち掛けられた時に、対応法が思いつかなかったので、黙って相手の話をただ聞いていました。すると、何故か急に仲が接近しました。

 

その意味も分からず、次に相談を受けた時に、張り切って解決策をたくさんメールしました。皆さんの予想通り、急速に仲は冷えて元の他人行儀な関係に戻りました。

 

この様な失敗を繰り返しても、現実的には定型発達者が持ち合わせている共感性というのが、どうしてもわからないので、優しさを発揮しようとしても、現実には、あさっての方向を向いた努力になりがちです。

 

もともと、下心なしに発動している場合は、普通の手助けとして成立できるのですが、たまに恋愛感情が付随した場合は、間違ったおせっかいを連発してしまい、相手から疎まれることを繰り返してきたような気がします。

 

ですので、小さな親切程度であれば自分としても能力を発揮できて、適応可能ですが、恋愛感情を帯同した場合、過剰な自意識が邪魔をして、異性からは気持ち悪く映って距離を置かれがちになります。

 

自分はメタ認知が苦手なので、自分の行動が相手からどう取られているのかを判断できず、気持ち悪さに拍車をかける行動様式を選択してしまい、さらに溝が深まるような傾向があります。

 

つまり、良心から発露するような優しさであれば、十分な気配りとして、他者に対して対応できるのですが、「相手からよく思われたい」といった利己的な自意識にとらわれると、とたんに動作がぎこちなくなり、言動も怪しくなって、キモがられるメンタルの一丁上がりです。

 

共感性は低いのですが、過剰な期待感がなければ、自分本来の優しさは過不足なく与えられます。そこに妙な感情が入り交じり、一挙手一投足に、自分の考える相手の気持ちが加味されることで、気持ち悪さが倍増してしまうのでしょう。

 

「嫌われたくない」という思いが、逆に嫌悪感を引き寄せてしまうという救いようのない状況です。

 

なので、人に与える変さを抑えるためには、一旦、過剰な期待値という物を捨て去って、フラットな対応を目指すしかないと思います。

優しさの理由

受動型の自閉症スペクトラムのせいか、対外的には優しいとよく言われていますが。身内の間ではわがままで自己中心的だと言われております。

 

外では、他者を傷つけまいとビクビクしていますが、一旦家に帰ると全ての要求を通そうとします。この差がなんで生まれてくるのか、見当がつきません。

 

他者を相手にして、我を通せば、力押しが得意ではない私は、すぐに否定されてしまうでしょう。また、精神的に他者に対して強く出るという事が出来ないようです。親からの遺伝だと思うのですが、他人からどう思われているかという事を凄く気にします。なので、どうしても抑えた行動しかできない訳です。

 

エゴグラムの、従順な子供(AC)がマックスでした。エゴグラムに出会ってから20年ぐらいたちますが、いつテストしても最高点になります。それだけ他人の目を気にしているという事です。

 

ただ、不思議なのは、他人の目を気にしている割にはファッションに無頓着だという点ですが、思うに、だらしない服を着ている自分を客観視できていないと思われます。その上、ファッションセンスがないことで、第三者から下に見られるということについて、しっかり把握していないのではと思われます。どちらかというと、「どう見られるか」よりも、「どう思われるか」に重点をおいているようです。

 

それが一旦身内になってしまえば、どう思われようが気にならなくなるみたいです。ですから、家庭内ではもめ事が多いです。基本的に敬語が苦手で、全く使えないのですが、両親が上下関係や敬語にうるさいので、常に注意を受け悶着の種になります。

 

エゴグラムに話を戻しますが、NPは低い方です。つまり、王様の優しさであって、自ら積極的に動いてフォローをするタイプの優しさを持ち合わせていないことになります。身体のだるさに常に悩まされているせいか、きびきびと動いてお手伝いをするような親切心が欠けていると思われます。

 

基本的に大人しくて優柔不断なのが、優しさと思われているような気がします。自ら進んで手助けするような、優しさを身に着けたいものですね。